洋楽

10cc「I'm Not in Love」は、なぜ合唱団のいない合唱になったのか

たくさんの声が聞こえるのに、歌っている人たちの姿が浮かばない。10ccの「I'm Not in Love」を聴くとき、この不思議さに注目すると、よく知っている曲でも少し違って聞こえてくる。

1975年のアルバム『The Original Soundtrack』に収められた曲だ。主役の歌の後ろには、巨大なコーラスのような響きが広がる。ただ、その作り方は、大勢の歌手を一度に集めて歌ってもらう方法ではなかった。

メンバーの声を録音し、繰り返し再生できる素材にする。そしてミキサーの音量つまみを動かし、その声で和音を奏でる。

ここには「昔の録音は大変だった」という話だけでは済まない面白さがある。10ccは、歌を録音する途中で、その歌に必要な楽器まで作ってしまったのだ。

最初から、この音があったわけではない

エリック・スチュワートは2017年のインタビューで、初期の「I'm Not in Love」はボサノヴァだったと振り返っている。ケヴィン・ゴドレイはその出来に納得せず、大量の声を使う方向を提案した。スチュワートが合唱団を雇うことを想像すると、ゴドレイが持ち出したのは、テープに録音した音を使うメロトロン的な発想だった。

制作の出発点は、豪華な機材の自慢でも、技術の実演でもない。この曲を、どんな音にすれば成立させられるかという問題だった。[1]

曲が弱いと思ったとき、メロディーを書き直すか、もっと派手な伴奏を足すか。その二択で考えがちだ。でも、同じ旋律でも、誰が、どんな距離から、どんな空間で歌っているように感じるかで、受け取る印象は変わる。

10ccの制作過程から考えたいのは、その三つ目の選択肢だ。曲を支える音の仕組みそのものを変えてみる。ボサノヴァから巨大な声の層へ、という変化は、ジャンル名の変更よりも大きな決断だったはずだ。

声を重ねてから、ミキサーを弾く

ゴドレイが2011年に説明した方法を短く整理すると、こうなる。

まず、メンバーの声で一つの音を長く歌い、多重録音する。その音をテープのループにし、曲で必要な高さの声を用意する。次に、声の素材をマルチトラックのテープへ録音し直し、ミキサーのフェーダーへ振り分ける。フェーダーとは、音量を上下させるスライダーのことだ。

必要な音のフェーダーを上げれば、和音になる。下げれば、その音は引っ込む。ロル・クレームとスチュワートは、基本の演奏に合わせてフェーダーを動かし、その結果を録音したという。ゴドレイ自身も、鍵盤の代わりにフェーダーを使う巨大なメロトロンにたとえている。[2]

この順番が面白い。通常の合唱なら、歌い手が曲の進行に合わせて和音を歌い、その演奏を録る。ここでは、声の材料を先に作ってから、音量の動きで曲の進行に沿わせている。

「何の音を鳴らすか」と「どのように鳴らすか」が別の作業になった。声は素材として保存され、演奏の身振りはフェーダーを動かす手へ移っている。

録音済みの素材だから、人間の演奏が消えたと考えるのは早い。音の入り方、重なり方、引いていく速さには、操作する人の判断が残る。この曲を聴くときは、声の数だけでなく、その声を出し入れする手の動きまで想像してみたい。

きれいに消さなかった音が、背景になる

スチュワートが『Sound On Sound』で明かした、さらに変わった工夫もある。フェーダーを最下部まで下げられないよう、テープで止めていたというのだ。そのため、使っていない音もかすかに残り、曲の下で鳴り続けた。

彼は、それを通常なら取り除こうとするヒスのような音を、あえて作ったものとして説明している。[3]

この話を知ると、「澄んだ音」と「何も混ざっていない音」は同じなのか、と考えたくなる。

録音を整えるとき、不要な音を減らすのは自然な判断だ。ところが、全部を消した結果、曲の背景まで平らになることもある。もちろん、この曲の方法を真似して無関係な音を混ぜれば、何でも幻想的になるわけではない。大切なのは、何を残すと、その曲の居場所ができるかだろう。

声の層が薄くなったところを聴いてみてほしい。そこは完全な空白なのか。それとも、次の和音が現れる前から何かが漂っているのか。主旋律を追うだけでは気づきにくい部分に、この録音の性格が隠れている。

「人間らしさ」は、加工の少なさで決まるのか

ここからは、この制作方法を踏まえた読み方だ。

人の声を細かく扱い、繰り返せる素材にすると、歌い手一人ひとりの姿は見えにくくなる。一方で、もとの材料が声であることは消えない。人がいる感じと、人の輪郭がつかめない感じが同時に生まれる。その間に、この曲のコーラスの魅力があるのではないか。

主役の歌を一人の発言として聴き、背景の声を、その人の内側にある言葉にならない感情として聴いてみる。そうすると、伴奏は単に歌を豪華に飾るものではなくなる。口から出てきた言葉の周囲に、まだ説明できないものが残る。

これは制作陣がそう意図したと断定する話ではない。声を楽器として扱った録音から生まれる、一つの聴き方だ。

声を加工したら、気持ちが薄まるのだろうか。逆に、姿が見えにくくなったからこそ、自分の感情を重ねやすくなる場合もある。その問いは、現代の加工されたボーカルを聴くときにも持っていける。

次に再生するときは、歌の後ろを追ってみる

まずはレーベル提供のアルバム音源で、歌声の後ろにある和音へ注意を向けてみよう。

一度目は、声が現れる速さ。鍵盤を押した瞬間のように始まるのか、それとも徐々に形を持つのか。

二度目は、和音が移る瞬間。前の響きが消えてから次へ進むのか、互いに重なりながら景色が変わるのか。

三度目は、主役の歌との距離。背景の声が増えたとき、歌は遠ざかるのか、むしろ一人の声として際立つのか。

どれも正解を当てるための聴き方ではない。フェーダーを演奏したという制作の事実を、自分の耳で考えるための手がかりだ。

「I'm Not in Love」の録音を知ると、スタジオの仕事が少し違って見える。演奏を録ったあとに仕上げる場所であると同時に、まだ存在しない演奏の方法を作る場所でもある。

合唱団を呼ぶ代わりに、声を録って、ミキサーを弾く。その遠回りがあったから、この曲には、歌っている人の姿を簡単には思い描けない声が残った。

関連記事:ジェイムス・ブレイクは、なぜ声を加工するほど本音に近づけるのか

制作背景の出典

[1]SuperDeluxeEdition:Eric Stewartインタビュー(2017年)。初期アレンジと、声を用いる発想についての本人の説明。
[2]Something Else!:Kevin Godleyインタビュー(2011年5月30日)。声の録音、ループ、フェーダー演奏の工程についての本人の説明。
[3]Sound On Sound:Classic Tracks 10cc「I'm Not In Love」(2005年6月)。Eric Stewartへの取材。フェーダーを下げ切らず、背景に音を残した工夫を参照。

\この記事はどうでしたか?/

-洋楽