「この曲、808が気持ちいい」。ヒップホップの話をしていると、そんな言い方に出会う。そこで指しているのは、ドンと鳴ってから低い音が伸びたり、音程を変えながらうねったりする、あの低音だ。
ところが、名前の出発点であるRoland TR-808はドラムマシン。ベース用の鍵盤楽器ではない。
では、ドラムの音はいつベースになったのか。この問いをたどると、古い名機の自慢話より面白いものが見えてくる。開発者が音に残した余地と、それを別の用途に使った音楽家たちの話だ。
同じ「808」で、機械と低音を呼んでいる
まず整理したい。TR-808は1980年に登場したリズムマシンの名前。一方、音楽制作で使う「808」は、そのバスドラムに由来する長い低音を指す言葉としても定着した。Roland自身も、ヒップホップでは808という語が長いバスドラム音と結び付いていると説明している。[資料1][資料2]
だから、曲に「808」が入っているからといって、制作机に本物のTR-808が置いてあったとは限らない。録音した一音を加工している場合もあれば、その響きをシンセサイザーで作っている場合もある。[資料3]
ここを混同すると、聴き方が少し狭くなる。「実機かどうか」という鑑定ばかりになって、低音が曲の中で何をしているかを見落としてしまう。
注目したいのは名前より働きだ。拍を強調する一撃なのか。次の一撃までを埋める音なのか。それとも、音程の動きで曲を引っ張るフレーズなのか。同じ系統の音でも、役割は変わる。
長く伸びるキックは、開発者も望んでいた
TR-808の開発に携わった菊本忠男は、2020年のインタビューで、手頃な価格でリアルなドラム音を出すという依頼に対し、高価なPCM方式ではなくドラム・シンセサイザーを提案したと振り返っている。[資料4]
面白いのは、その菊本が、後にプロデューサーがバスドラムの余韻を伸ばして使う姿を喜んだと語っていることだ。用途は当初の想定と違うことがあっても、長くできるDecayつまみ自体は、彼が意図して残したものだった。[資料4]
「失敗した楽器を、若者が誤用して救った」。808の歴史はそう要約されがちだが、それだけでは大事な部分が抜ける。作り手が用意した可変幅があり、その先に使い手の発想があった。
ドン、と短く終わる音なら、耳はまず打点を受け取る。ドォーン、と尾を引けば、その後ろにも音楽の材料が残る。どこまで伸ばすかを選べることは、リズムの隙間に何を置くかを選べることでもある。
本体には、いまの808ベース音源のような操作はなかった
ここで、少し意外な仕様を見てみよう。オリジナルTR-808のバスドラムに用意されたコントロールは、LEVEL、TONE、DECAYの三つ。公式仕様では、タムにはTUNINGが記載されているが、バスドラムには専用のTUNINGつまみがない。[資料5]
現在の音源で鍵盤を押し、808ベースをドレミと鳴らす感覚を、そのまま当時の本体へ持ち込むと話がつながらなくなる。
重要な橋渡しをしたのは、音を録音して別の高さで再生できるサンプラーだった。楽器全体を使うのではなく、そこから出てくる一音を取り出す。そうすると、「この機械のバスドラム」という音が、別の機械で演奏する素材になる。
機材の歴史というより、音の持ち運び方が変わった歴史と考えると分かりやすい。
Dynamix IIは、808と909を混ぜて音階を付けた
その過程を具体的に語っているのが、フロリダのDynamix IIだ。
David Nollerは「Just Give the DJ a Break」の制作について、TR-808とTR-909のキックをEmulator IIで組み合わせ、SP-1200を主なドラムシーケンサーとして使ったと説明している。さらにSP-1200のmulti-pitch機能で、一つの音を高さを変えた八つのキーに展開できたと話す。[資料6]
ここには二つの工夫がある。まず別々のキックを混ぜ、欲しい響きを作る。次に、その響きを音階として演奏する。
「低い音を足す」と「低い音でフレーズを作る」は似ているようで違う。前者なら、一撃の迫力を増やすだけでも成立する。後者では、どこで同じ高さを繰り返し、どこで動かすかが曲の表情になる。ドラムの一部だった音が、ベースの仕事まで引き受け始めるのだ。
Nollerは発想の手掛かりとしてSweet T & Jazzy Joyceの「It's My Beat」も挙げている。[資料6] 一人の天才が突然すべてを発明したというより、聴いた音を別の機材へ持ち込み、さらに変える連鎖として読む方が、この音楽らしい。
「Planet Rock」の低音を、全部808だと思わない
この歴史を耳でたどるとき、よい比較対象になるのが「Planet Rock」だ。
プロデューサーのArthur Bakerは、Future Musicのインタビューで、同曲ではドラムにTR-808を使い、ベース音と効果音にはMicromoogを使ったと思う、と回想している。[資料7]
808の代表曲として知られているからといって、曲中の低音すべてが808とは限らない。この区別をしたうえで「Just Give the DJ a Break」と並べてみると、聴くポイントがはっきりする。
「Planet Rock」では、リズムを刻む音とベースの動きを分けて追ってみる。「Just Give the DJ a Break」では、打撃の重さと音程の動きが、どう一つの低音に同居しているかへ注意を向ける。
名曲を年代順に並べるだけなら、年表になる。音の担当がどう変わったかを比べれば、いまの曲にも使える聴き方になる。
808は自動伴奏でも、扱い方は演奏だった
低音の進化だけを追うと、リズムマシンのもう一つの面を忘れそうになる。音を鳴らすタイミングだけでなく、出したり引っ込めたりすることも演奏なのだ。
Egyptian Loverは、自分のTR-808を観客の前で鳴らした経験を、2021年のインタビューで語っている。カウベルやハイハットを抜き、再び戻し、ビートを変えると、客がさらに踊ったという。[資料8]
曲を止めずに、聴こえる景色を変える。機械が同じパターンを繰り返していても、それをどう見せるかまで自動になるわけではない。
ベースの話に戻せば、低音も鳴らし続けるだけが使い方ではない。ずっとあった音を一瞬抜く。戻す。短く切っていた音を、ここだけ伸ばす。そうした出し入れを追うと、808の魅力は「重い」「太い」という形容詞だけでは足りなくなる。
次に聴く曲では、低音の「終わり」を追ってみる
808を聴き分けようとして、最初から機材名を当てる必要はない。次の三つに耳を向けるだけでも、曲の見え方は変わる。
- 一撃の後、音がどれくらい残るか。
- 残った音は、同じ高さか。それとも動いているか。
- 低音が消える場所と、戻ってくる場所はどこか。
この三つなら、ヴィンテージ機材を買わなくても、好きな曲で試せる。音程が分かりづらければ、鼻歌で追えるかどうかを考えてみてもいい。うまく追えない曲もある。その違い自体が、低音の使い方の違いだ。
制作をする人なら、手元の長いキックを一つ、短く切った場合と伸ばした場合で比べてみるのも面白い。音量を上げずに余韻だけを変えると、迫力とは別に、次の音を置ける場所まで変わることに気づくかもしれない。
808がドラムからベースへ広がった話の面白さは、機械の性能だけでは終わらないところにある。長い一音を、誰かが「これは音階として使える」と考えた。その瞬間、同じ音の仕事が増えた。
次に808の低音で体が動いたら、鳴り始めだけでなく、鳴った後を追ってみてほしい。曲の主役は、その余韻の中にもいる。
参考資料
- [1] Roland「The TR-808 Story」
- [2] Charles Burchell / Roland「Designing Custom Drums for Roland Cloud's TR-909 and TR-808」(2020年9月9日)
- [3] Adam Douglas / Roland「Nothing Sounds Quite Like an 808: Analyzing the Sound That Changed Music」(2024年1月12日)
- [4] Paul McCabe / Roland「Tadao Kikumoto: An Exclusive Conversation」(2020年8月1日)
- [5] Roland「TR-808: Technical Specifications」
- [6] Mike Sparks / Roland「Dynamix II: On Miami Bass, the TR-808, and Finding the Perfect Tempo」(2020年8月26日)
- [7] Future Music「Future Music interview with Arthur Baker from 2006」(2006年取材、2012年11月7日再掲)
- [8] Kyle Eustice / Roland「Egyptian Lover and the Art of Staying Gold」(2021年9月29日)