邦楽

サカナクションは、なぜ踊れる音楽で孤独を描けるのか

体は動く。それなのに、気持ちは簡単に晴れない。

サカナクションを「踊れるロックバンド」と呼ぶと、確かに一面はつかめる。でも、その説明だけでは取りこぼすものがある。高揚するために聴いていたはずの曲が、いつの間にか、自分ひとりの時間へ戻ってくる。誰かと同じリズムに乗ることと、誰にも説明できない気持ちを抱えることが、同じ曲の中で両立している。

もちろん、聴く人すべてが寂しさを感じるわけではない。ただ、「楽しいのに、どこか孤独だ」という感覚を持ったことがあるなら、それを単に暗い歌詞と明るいビートの組み合わせで片づけるのは惜しい。

本人たちの制作時の発言をたどると、もう少し具体的な仕組みが見えてくる。サカナクションは、人に届く形へ音楽を開きながら、その出発点にあった個人的な感情を、簡単には消さない。その二つの仕事を、ずっと同時に続けている。

「夜の踊り子」で、なぜ不安がダンスにつながるのか

「夜の踊り子」を、盛り上がるためだけの曲として考えると、その制作背景は少し意外だ。

2012年のMANTANWEBのインタビューで、山口一郎は、学校や将来を選ぶ若い人たちの不安を想定していたと話している。そして、以前のバンドが解散した後、クラブで得た経験をライブへ持ち帰ろうとしてサカナクションを始めた、自身の経緯にも触れている。山口一郎インタビュー/MANTANWEB

ここには、踊ることが不安の反対側に置かれていない、という面白さがある。

すべて順調だから踊るのではなく、どう進めばいいか分からない時間にも、音楽のある場所へ行く。答えが出ていなくても、体はそこにいられる。「夜の踊り子」の背景からは、そんな順番を読み取れる。

この順番を知ると、踊りやすさを、深刻な感情を薄めるための飾りとは捉えにくくなる。音に反応できること自体が、行き先の見えない人に残された行動の一つになるからだ。

もう一つ、同時期のFanplus Musicの取材では、ライブの曲順の中で必要な曲を考えつつ、テレビを通じて若い世代へ届けることも意識したと語っている。内面から自然に湧いた曲を、そのまま外へ出しただけではない。届ける相手と場所を考えながら作られている。制作時のインタビュー/Fanplus Music

個人的な経験を、多くの人が入ってこられる形へ作り直す。ここで既に、サカナクションの二つの方向が重なっている。

「ミュージック」は、表と裏を別々にしなかった

この二方向を、バンド自身はどう整理していたのだろう。

2013年、TOKYO FMの「サカナLOCKS!」で山口は、アルバム『sakanaction』の収録曲を表と裏に分けて解説している。タイアップで広く届く曲を出した後、自宅で自分たちの好きな音楽を作ろうとした。その流れの中で、「ミュージック」は両方の感覚が混ざった曲として説明されている。本人によるアルバム解説/TOKYO FM

ここで気をつけたいのは、表を「明るい曲」、裏を「暗い曲」と翻訳しないことだ。まして、表は商売で裏が本音、と単純に分けると、この曲が両方だという説明を受け止められなくなる。

誰かに届くように曲を整えることにも、作り手の本気はある。一方、自分たちが面白いと思うものを掘り下げるときには、初めて聴く人への分かりやすさが、最優先ではない場合もある。「ミュージック」は、その両方を一つの曲で引き受けたと読める。

だから、曲が大きく開けることを、私的な感情からの卒業として聴く必要はない。遠くまで届く形になったことで、むしろ小さな感情が、それを抱えている人へ届くこともある。

次に聴くときは、「どこが盛り上がるか」に加えて、「そこで自分の気持ちは本当に明るくなったのか」と問い直してみたい。体の反応と気持ちの動きが一致しなかったら、そのずれが聴きどころになる。これは曲の唯一の正解ではなく、表と裏という本人の説明から試してみたい聴き方だ。

同じ「セプテンバー」を、なぜ二度収録したのか

この話を曲の好みだけで終わらせない、格好の比較材料がある。2019年のアルバム『834.194』に収められた、「セプテンバー」の東京版と札幌版だ。

山口は同年のインタビューで、誰かに聴かせるより自分のために作っていた17歳頃の曲を、当時に近い感覚と、東京で活動する現在の感覚の二つで編曲したと説明している。アルバムの二枚構成も、その異なる制作感覚と結びついている。『834.194』制作インタビュー/rockinon.com

同じ曲だからこそ、話がはっきりする。

新しい曲に進めば、昔の自分との違いは、題材や歌詞が変わったせいにもできる。同じ曲を二つの形で置くと、何を残し、何を変え、どう人に届けようとしたのかを比べられる。作品の中に、過去と現在の距離そのものが入ってくる。

東京が偽物で札幌が本物、という話ではない。人に届ける技術を身につけた現在の自分にも、自分にしか向いていなかった頃の曲が必要だった。そのことの方が重要だと思う。

多くの人に聴かれるようになると、個人的な感情は、伝わりやすい物語へ整理されやすい。分かりやすい結末を付ければ、受け渡しもしやすくなる。けれど二つの「セプテンバー」は、整理しきった一つの完成形にまとめず、異なる距離のまま並んでいる。

「踊れる曲にも孤独が残る」という感覚を考えるうえで、これは大きな手がかりになる。音楽を届ける技術が増えても、かつて一人で曲を作った場所まで、きれいに消してしまわない。その両立が、サカナクションの奥行きを作っているのではないか。

大勢で集まるライブが、一人で聴く感覚へ近づくとき

この両立は、ライブの作り方にも見える。

2019年の「あいちトリエンナーレ」で行われた『暗闇 -KURAYAMI-』は、舞台だけでなく客席も完全に暗転する音楽パフォーマンスだった。主催者の公式案内でも、発光する物の持ち込みなどを制限する、通常公演とは異なる企画として説明されている。公演概要/あいちトリエンナーレ2019

ここからは、仕組みについて考えてみたい。

普段のライブでは、隣の人の動きやステージの姿も、楽しみ方の手がかりになる。周囲が腕を上げれば、自分も上げやすい。演奏者が見えれば、どの音を誰が出しているかを目で追える。

その視覚的な手がかりを減らしたら、同じ会場にいる人たちの体験は、どこまで同じなのだろう。音を共有していても、そこから思い浮かべる景色や記憶は、それぞれの中にある。大勢で集まるための空間に、一人で音を受け取る余地が生まれる。

これは参加者全員の感想を代弁したものではない。公演の設計から考えられる、聴き手と音の関係だ。なお、同名の2021年予定公演は中止になっている。ここで扱っているのは2019年の企画である。

サカナクションのライブを、派手な照明で一体感を作るものとだけ考えると、この方向は見落としてしまう。誰かと同じ場所にいることと、自分の内側へ向かうことは、同時に起こり得る。

配信ライブでは、家にいる一人へ音を作り直した

反対に、観客が一つの会場へ集まらないときはどうなるのか。

2020年の『SAKANAQUARIUM 光 ONLINE』を振り返るラジオで、山口と江島啓一は、会場の反響を前提としない環境や、リアルタイムのマスタリングについて話している。観客のいる通常公演を、そのままカメラで撮るという発想から、音の作り方自体が変わっていた。本人たちによる配信ライブ解説/TOKYO FM

この技術的な話は、「孤独」という言葉から遠いようで、むしろ地続きだ。

家で一人、ヘッドホンをつけている人へ届く音は、ホールで全身に受ける音とは条件が違う。同じ演奏を送れば、同じ体験になるわけではない。その違いを、音作りの段階から扱っている。

「一体感」という言葉は便利だが、聴き手を一つにまとめすぎることもある。同じ配信を見ていても、部屋も、一日の過ごし方も、終わった後に戻る生活も違う。そうした個々の場所へ音楽が届くには、熱量だけでなく、届け方の具体的な設計が必要になる。

サカナクションが音響やテクノロジーへ向けてきた関心を、音質へのこだわりだけで読むのも、少し狭い。どんな場所で、誰が、どんな距離から音を受け取るのか。その条件を動かすことまで、表現に含めていると考えられる。

踊ったあとにも残る気持ちがある

「夜の踊り子」の制作背景には、不安な時間から音楽のある場所へ向かった経験がある。「ミュージック」には、広く届けることと自分たちの感覚を掘ることが重なっている。そして「セプテンバー」の二つの形には、その両方を消さずに並べる選択がある。

この流れをたどると、サカナクションの孤独を、作者の性格や心身の状態だけで説明する必要はなくなる。作品の作り方と、音楽を受け取る場所の設計からも考えられるからだ。

踊っている間、考え事を忘れられる日もある。逆に、体が動くことで、それまで言葉にできなかった気持ちに気づく日もある。サカナクションの音楽を後者のためにも聴けるとしたら、そこにあるのは、楽しさを控えめにする工夫ではない。楽しんだ後にも残るものを、急いで消さない作り方だと思う。

曲が終わったとき、元気になっていなくても構わない。少し踊れたことと、まだ寂しいことの両方が残っている。それを矛盾のまま持ち帰れるところに、このバンドを繰り返し聴きたくなる理由の一つがある。

作品名やアルバムの位置づけを整理したい方は、サカナクションの入口をまとめた記事もどうぞ。本稿では、選曲の案内とは別に、その音楽がどんな感情を置いておける場所なのかを考えました。

※公開インタビューと主催者・放送局の資料に基づく考察です。感情や聴こえ方の説明は筆者の解釈・聴き方の提案であり、作者の唯一の意図、全リスナーの反応、実地観覧の記録を示すものではありません。資料確認日:2026年11月2日。

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